「つまり、人の敵は、その家の者たちなのである」(岩波版翻訳・ マタイ福音書10:36)

「家族」とは有無を言わさず良いものか?この幻想に対し、子供による不適応という体を張った告発が多発している。「私には、親との関係自体が、生きづらさの原因なのだ」と。「実は敵は自分の家族なのだ」という冒頭の言葉を記した聖書は、現代においてこそ新鮮だ。この社会では、過剰な同一化の規範が繊細で異質な人間を圧迫している。イエスの言葉は、正にこの息苦しい常識の網目を、バッサリ切り捨てている。
創世記の、神の創造の「祝福」に、人間の評価がとって代わり、人への抑圧になっている。その重圧が逃げ場のない家族という場で、子供たちを苦しめている。イエスのもとに集まったのは、自分の家族からも排除され、さまよえる人々だった。
イエスの言葉は、まず神の創造の平和の回復ために、自身を差し出す、十字架の力=「神が共に苦しんでくださる出来事」によって、改めてこの世に正義と平和を打ち立てる、驚くべき希望の言葉なのだろう。(司祭 パウロ 佐々木道人)